昭和40年10月27日  夜の御理解



 先日、小倉の、おぉ、ご大祭の時に写しておった写真が先日できてきておった。私はいろいろ見せて頂いて、私を大写しにしておる写真がいくらもあったんですけれども、家のあれは、私、お広前おるのを下から写しておるからではありますけれど、何かこう、何て言うんですか、日蓮さんの銅像のように移って、下からこう写しておりますから。その写真の中にです、私、何か知らんけれど、自分ながら嫌だなあとこう思うような、自分ながら、うー、嫌な感じをしたんですけれども、何か知らんけども、あまりにも威風堂々とし過ぎておるということ。
 本当に私の心の中に沢山、んー、手続きの先生方、または関係の先生方が参拝になって、また、(きらぼし?)のような立派な先生方がご奉仕になられましたんですけれども、私の心の中に教師の資格こそ持たんけれども、力はあの人達よりも俺は持っておるんだといったようなものがです、どこかの隅に、やっぱりあるんじゃないだろうか。言わば、(よかつのごたる?)ふうな写真ができておる。(よかつのごと?)しとる。
 私は本当に、そういう自分の鏡を見る時、自分の姿を見る時、自分の心を、おぉ、思ってみる時です、そういうようなものに触れてまいりましたらもう、本気でそこんところを私は謙虚になっていかなければならない、謙虚な心の状態というものを頂いていかなければいけないと私は思うのです、ね。
 もうお道の信心をさして頂くならば、もう実意丁寧神信心ということはもう謙虚な、ということに尽きると思うんです、ね、そらもう馬鹿丁寧に、そのう、平身低頭しておるという意味じゃなくてもです、ね、心からそうな、だんだんなっていく、育っていかなければいけないんだ。そういう意味合いで私共は、まあ本当に、いー、ご無礼になるかもしれませんけれども、桂先生あたりのご信心、桂先生あたりのじゃない、桂先生のご信心を私共が受け継がせて頂いて、だんだんおかげを蒙ってきたけれども、やはりなら桂先生のご信心が完璧というわけではないということ。
 ですから、桂先生のご信心の、完璧でないところ、言うならばそれが、あぁ、福岡に伝わり久留米に伝わり、善導寺に伝わって来ておるわけでございますけれどもです、それが先生方のその、全部が完璧ではないということ。その先生の持ち前、その先生の特長、よいものというものを摂取するというか、頂かせてもらうということと同時にです、ね、そこに、そうあってはいけないものを発見したならばです、これは、やはり、いくら師匠であろうが、先輩であろうが、そこんところを改めていかなければいけない。
 これは九州だけに限ったことではないかもしれませんけれどもですね、親先生と言われ、大先生と言われるようになるとですね、非常に傲慢な態度をとるようになるですね。言葉使いから、「おい、何々!」といったような言い方をされるんです、ね。まあ例えば残っておる言葉の中にでもです、それはもう本当に情の細やかな、情が打ち出されておるといやあ仕方がない。
 またそれを受ける者もそれを受けて、実は育ってきておるのです。むしろそれを言われて有り難いと思うてきとるんです。「この馬鹿野郎が」と、ね。例えば、あぁ、日田の堀尾先生なんかにはこの(めたたれ?)がっちゅうて怒りなさったそうです。目が若い時からお悪いかったと。甘木の初代なんかも随分ひどいことを言われなさったらしですけども、その奥様達にまでそれを言うておられます。この(わらけつ?)がっち。もうこれは有名なことですね。この(わらけつ?)と言うて怒っておられたそうです。
 ですから、いくらそれが桂大先生であろうと、そういうことは許されないと私は思うです。けれども言われる方はです、確かに育っておることだけは間違いないです、ね。あんなに、自分をもう肉親扱いにして下さる、自分のことを思うて下さる、自分を育てて下さろうとする、その、それは有り難いのだけれどもです、ね。
 例えば、そのところを三代金光様などにいたしますとです、もうこれこそ、その呼び捨てにどんなさった言葉をです、聞いたことがございません。そこの「こうちゃん?」がここで、あることをお伺いさして頂いて、心もとないことがあった。それけんもう一遍、金光様にそのことをお伺いさして頂いた。したら、金光様が「大坪先生の言われるようになさったらいいでしょう」と仰ったっちゅう、ね。
 教師でもない、私をです、言わば皆さん達は、やっぱり先生と思うておるから、このところになって、「大坪先生の言われるようになさったらよかろう」とこう言うておられる。誰々先生、誰々先生、言わば三代様から言えば皆が弟子。けれども、そりゃやっぱ先生扱い。あれがですね、例えば桂大先生あたりの場合なんか確かに力がおありになったんですね。それがきざになく、そら残っとる言葉をこうして言うから何のようですけれども、当時、やはり、先生に呼び捨てにでもされる弟子だったら、やっぱそりゃ有り難い、良い弟子であったに違いないです、ね。
 石橋先生に仰っておられることでもそうでしょうが。「石橋さん、あんたげん息子は馬鹿じゃね」って仰った。いくら神様のようなお方だってそうでしょう。聞き捨てならない、普通、言うたら、ね。あれだけの御神徳家でおありになったと、けどもそういうようなものは、私は、あぁ、九州の信心から取り除いていかにゃいけん、力のない先生が弟子達にですね、「おい、何々」と何かを呼び捨てにしておられるのは、もう実にもうそれは、何と申しましょうかね、嫌な感じですね、それこそ。
 やっとかっと言いよんなさるとじゃん、うん。これを例えば言葉使いだけではありませんけれどもです、ね。自分が思うておること、自分のしておるその態度。私は、これも今度の小倉で、写してもろう、うーん、写されておるところのその写真なんかを見せて頂いてですたい、はあ、私の、あれじゃ皆から嫌われると私は思うのですね。椛目の人達こそ、まあ皆さんが先生を親先生と言うて下さるにいたしましても、「大坪が、あんやつがもうよかとのごとしとる」と思われるより他に無いです、ああいう態度であるならば。その態度が写真に出ておるです。まるきり日蓮さんの銅像んごとこうしとるです、威張ったように見える。そういうようなものがあると、私の心の中に。
 本当に私はですね、自分の心の中に実意丁寧、謙虚な、しかもそこから生まれてくる有り難さといったようなものがです、私共のそうした、あぁ、人間は、あぁ、何と申しますかね、大将と言われたり、旦那様と言われたり、奥様と言われるようになるとだんだんその、おぉ、無聊(ぶりょう)になると。それが、私共のなら修行時代の写真を、どの写真も見せて頂いてもです、あること、なるほどその、おぉ、言わば押せば、引けば押せれるごたる、もうやせ細った姿の中にです、何か自分が見ても尊いものを感じますものね。
 あのままで、あの体に肉がついて、あの写真に肉がついてくる。あのままで内容がです、謙った、本当に、汚いものと汚いものの中の合間にはさまっておる食べ物ひとつでも、ひらって押し頂かなきゃおられなかったあの時代のことをです、私自身これは、もう一遍おかげ頂かなきゃいけないなというふうに、まあ感じるです。
 先ほど、今、農園の外に、この、つり、つり、は、あの、つり花ですね、竹の筒が小さいです、それで私は菊の花をさしております。毎日、私があれに水を取り替えるんですけれども、今日は久留米のご大、ご大祭でしたから、それがなして、なされてなかったんです。葉がこうしおれておりますから、愛子に、「それ水ばかえといて、もうそれ水がなかばい」ちゅって。なるほど、そして開けてみたところがもう水の気もないです。
 竹の筒は小さいのに、大きな花が。そん時に私がですね、そらおしかったの、またこんなに立派な花をと、いうふうにはひとつも思わないですね、うん。かわいそうなこっじゃった、かわいそうだったねえっちちから、これは私の実感です。あの、こう、引き揚げた時に水が、水の気もなかったんです。早速どこから、あのう、水きりか、どっかしてから、こう叩くかどうかして水揚げするように、ね、その菊の切花がです、頂いておるとこへ、寿命であり命であるというものをです、十分に真っ当させ得なかったことが、あぁ、すまないという気がするのであり、かわいそうであったという気がするんです。「早よ、水をさしてやりなさい」というような心です。こういう心の状態の時には、私共の心の中にその、おぉ、言わば、あぁ、謙虚なものがだんだん育っていくのじゃないかと言うふうに感じた。
 結局、自分の心の中の神心を、もっともっと高めていかなければいけないということですね。例えば、「教える、教えられる」。言わば弟子と師匠という関係になる、ありますと、ね。なるほど、教えなければならない、厳しく言わなければならないからです、ね、言葉使いもつい、荒くもなってくるかもしれませんけれども、そういう中にでも、私は、自分が良かつのごたる、もう先生のごと思うとる、自分が良かつのごと思うとるといったようなものがです、ね、その中身にあってからの、厳しくしつけるというか、教えるということになってきたらです、また、ちょっとは感じの違ったものになってくるのじゃなかろうか。
 私、桂先生の例をとったんですけれども、桂先生のあたりの場合はそれであったのではなかろうかと思います。そうだろう、であったにまた違いありません。でなかったら、そう言われながら育っておられます。桂先生からあげん呼び捨てなされたから、と言うて、信心やめたといったような話は聞いたことがない、ね。
 それとてもです、それとても、私は、やはりいけないとこう思うです。それは九州の信心の上においてもです、これは改めていかなければいけない。それは改めようと思えばすぐ改めれる形に出ておることではありますから、ね。内容がいよいよ、実意なもの、私はお道の信心はそこんところだけを、ずっと考えておっただけでもおかげ頂くと思うです。自分の言うておることが、態度が、思うておることが、ね、実意丁寧神信心に叶うておるかどうかということを思うていくだけでも、私はおかげ頂くとすら思います。どうぞ、(がんばって?)。


明渡 真(7/15)